2019年2月24日日曜日

日本史 建国神話⑥


・ソコツワダツミ~ウワツツノオ

 さて,次いで紹介するのはソコツワダツミからウワツツノオまで六柱の神である。これらの神もまたイザナギが禊をすることにより生まれた神であり,『古事記』の内容によればイザナギが水に潜って身を清める際にその深さによってそれぞれ生まれた神であるという。具体的には,まず,イザナギが水の底へもぐって体を清めたときにソコツワダツミ,ソコツツノオが生まれた。次に彼が水の中程の深さで身を清めたときにナカツワダツミ,ナカツツノオが生まれた。そして,彼が水面近くの浅い深さで身を清めたときにウワツワダツミ,ウワツツノオが生まれたという。
 これらの神を以下に列挙する。(番号は以前紹介したヤソマガツヒからイヅノメまでのものを継承することとする。それらもまたイザナギが禊をすることで生まれた神であるからである。)

ソコツワダツミ
ソコツツノオ

ナカツワダツミ
ナカツツノオ

ウワツワダツミ 
ウワツツノオ

 これら六柱の神は,2つのグループに分けられる。⑥ソコツワダツミ,⑧ナカツワダツミ,⑩ウワツワダツミの三柱から成るグループ。そして⑦ソコツツノオ,⑨ナカツツノオ,⑪ウワツツノオの三柱から成るグループである。
 記紀などの史料における物語のなかで,これら六柱の神が単体で行動することは無く,常に三柱のグループで行動している。また,神社にご祭神として祀られる場合は,ほとんどの場合三柱同時に祀られる。単体で祀られることはおおかた無いといってもいいだろう。
 

・安曇連(あずみのむらじ)
 
 『古事記』によると,ソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミ三柱の神は,安曇連(あずみのむらじ)祖神として祀る神であるという。安曇連とは,古代豪族のひとつである。
 まず,祖神とは何かについて触れておく。『古事記伝』によれば,“祖神”とは“オヤガミ”とよむべきであるとする。では,“オヤガミ”とはどのような神であるのだろうか。今日我々にとって“オヤ”とは“親”であり,父母のことを示す言葉である。しかしながら『古事記伝』によれば,ここでいう“オヤ”とは,単に父母のことのみを示すのではなく,何代も昔の遠い祖先までもを含めてすべて先祖のことも含んでいるという。また,これは古代日本における言葉の意味であるという。(但し,先祖のことを遠祖,上祖,本祖,始祖などと記す場合があるが,『古事記』においてはそれらをすべて単に“祖”と表現していることを『古事記伝』は取り上げている。)
 これを見れば,ソコワダツミら三柱の神が,安曇連の先祖となる神であるといえるだろう。

 それでは,その安曇連とは何なのか。
 『先代旧事本記』にこれら三柱の神が安曇連によって筑紫の志賀の神として祀る神であるという内容があるなど,安曇連は福岡県志賀島を根拠地とした古代豪族であったことが分かっている。
 志賀島はかの有名な『漢委奴国王印(かんのわのなこくおうのいん)』が発見された場所としても有名だが,かつてその場所を根拠とした豪族がいたのである。

 また,安曇連が漁民系の豪族であったことも推測される。『古事記伝』によれば“ワダツミ”という言葉は日本神話における海の神の意であるという。
 神話における最初に現れた“ワダツミ”はオオワダツミという神であり,この神はイザナギとイザナギの間に八番目に生まれた子である。
 “ワダツミ”の名を冠するソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミが海に関連する神であるならば,それを漁民系の豪族が祖先神として祀るのは自然である。

 また,安曇連が漁民系の豪族であったことを裏付けるものは他にもある。例えば,『日本書紀』神功皇后(じんぐうこうごう)3年の記述には,11月に安曇連の先祖が漁民の統率者に任命されたという内容がある。
 具体的には,この時,各地にいる漁民のが天皇の命令に背いて騒ぎ立てたので,大浜宿禰(おおはまのすくね)という人物にこれを平定させた。これによって,彼が漁民の統率者の地位を与えられることになるが,同書によるとこの人物が安曇連の祖先にあたるのだという。
 この内容は,安曇連が海人集団の長であることを根拠づけるものとされる。
 こうした理由などから,古代にはソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミを祀った安曇連という漁民系の豪族がいたことになる。


・ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオ

・“筒男”

 さて,次いでソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオについてだが,まず,これらの神の名前の意味について触れておく。
 これら三柱の神を漢字で示すと,それぞれ“底筒男”,“中筒男”,“表筒男”となる。まず,名前に共通する“筒(ツツ)”の部分の意味について『古事記伝』の見解を示す。同書によれば,この“ツツ”というのは,二つの“ツ”が連なる表現で,その前後の“ツ”が異なる意味を持つもとであるという。
 まず,前の“ツ”については,“ソコ(底)”,“ナカ(中)”,そして“ウワ(表)”にかかる言葉である。つまり,“底津”,“中津”,“上津”というように,“津”を意味しているものとされる。
 そして,後の“ツ”については,“オ(男)”にかかる言葉だとされ,“男”という字の稱名(たたえな:優れていることを強調するために着ける表現か)であるとされる。
 
 
・三韓征伐

『古事記』,『日本書紀』には,いわゆる三韓征伐という出来事が表されている。神功皇后の時代において,新羅,百済,高句麗という,古代朝鮮半島に存在した国を日本に服属させたという内容であるが,真偽は不明である。
 神功皇后は14代天皇である仲哀天皇の皇后であり,仲哀天皇の後を次いで日本国の政治の中心的な人物となった。彼女の存在自体,実在したか否か激しい論争が今日も繰り広げられてている。

 三韓征伐については後に詳しく述べたいと思う。ここで重要なのが,この三韓征伐にソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオが深くかかわっているということである。そもそもこの三韓征伐はもともと仲哀天皇の計画にはなく,これらの神が望んで行われたことと伝えられる。以下,『日本書紀』における内容を簡単に示す。

 仲哀天皇の即位2年(秋9月5日とされる記述),天皇は熊襲(くまそ)を討伐することを群衆に伝えた。しかし,皇后である神功皇后に神が憑依して,「天皇は何故,熊襲が従わないことを憂いで,痩せた彼等の地を攻めようとするのか。このような場所を攻めるより,多くの宝がある新羅を攻めるのがよい。もし,自分を祀るのであれば,刀で血が染まることなく,その国を服従させることが出来,さらに熊襲も服従するであろう。」と言った。

 だが,これを聞いた天皇には疑いの心があった。皇后に憑依した神はまた,新羅国が処女の眉のように海上に浮かぶ国(水平線に僅かに見える陸地をあらわす)と言ったが,天皇は高い山岳に登って海を見渡し,そこには広々とした海のみが広がっており,国の一つも見当たらないと言った。

 すると神は「あなたがそのようなこと言って新羅討伐を実行しないのであれば,国を保つことは出来ないでしょう。また,今,皇后(神功皇后)が身ごもっている子供(後の応神天皇)がこの国を得ることになるでしょう。」と言った。
 その後,仲哀天皇は神託を無視して熊襲征伐に向かったが成功せず,即位9年に突然病気にかかって間もなく亡くなった。つまり,神の神託を聞き入れなかったので早く命を落としてしまったのである。天皇の死は人民には伝えられず,間もなくして,神功皇后が先に神託をした神の名を聞いた。

 皇后が「以前,天皇(仲哀天皇)に神託をしたのはどこの神ですが。」と尋ねると,神が七日七夜に渡って答えた。(というのも,神は一柱ではなく複数いたようで,皇后側が「まだ,他におられますか。」と訊くと別の神の名前が返ってきた。)
 神功皇后側の問いに神の返答を以下に列挙する。中には曖昧な返答もあるが,確かにソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの名を見ることが出来る。

①撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたあまさかるむかつひめのみこと)

②尾田の吾田節(あかたふし)の淡郡(あわのこおり)にいる神
 
③天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)

④(他に)いるかどうかわからない。

⑤日向国の橘の水底にいて,まるで海藻のように若々しく命に満ちている神。その名前は,表筒男(ウワツツノオ)中筒男(ナカツツノオ)底筒男(ソコツツノオ)がいる。
 (日向国の橘とは,イザナギが黄泉国から帰ってきた後に禊を行った場所である。したがって,ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオが生まれた場所といえるであろう。)

⑥(他に)いるかどうかわからない。

 そしてこれ以上は神の名前が挙げられなかったので,神功皇后はこれらの神の教えのままに祀った。
 だが,神功皇后が新羅出兵をこのあと間もなくして行った訳ではないようだ。神功皇后が神託を請うために自ら神主になったのは仲哀天皇が亡くなった年が仲哀天皇9年の春3月1日であり,その後皇后が新羅に出兵を決意するのが4月3日である。つまり,神託を受けてから新羅出兵を決意するまで約1か月くらいの期間がある。
 皇后はこの間に熊襲を平定していた。また,土蜘蛛(つちぐも)の討伐も行っていた。(土蜘蛛とは熊襲と同じく,朝廷に服属しない集団の一つと推定される。)

 そして,仲哀天皇9年の夏4月3日に新羅を攻める直接の契機となる出来事が起きた。この日,皇后は肥前国(ひぜんのくに:佐賀県,長崎県の一部にあたる)松浦県(まつうらのあがた)にある玉島里(たましまのさと)という場所で食事をしていたが,ここで釣り針を川に垂らして占いをした。
 その内容とは,これから新羅を攻めるにあたって,皇后がそれを成し遂げることが出来るか否かを占うというものであり,垂らした釣り糸に魚がかかれば新羅征伐は成功し,かからなければ失敗するという。結果,鮎がかかったので,皇后はその準備に取り掛かった。

 そして,神功皇后は香椎宮(かしいいのみや:筑紫国にある居地,仲哀天皇が亡くなった場所)に戻って海水に頭をつけ,再び神の力を乞うた。もし,神の力を受けることが出来るのなら彼女が水に浸した髪がひとりでに二つに分かれるだろうと言うと,その通りに髪はひとりでに別れたという。皇后はその別れた髪をそれぞれ束ね結い上げた。
 こうして結い上げられた彼女の髪型は髻(みずら)といって,古代においては男性の髪型であった。すなわち彼女は軍を率いるために男装をしたのである。
  
 こうして,新羅出兵のために各地から船舶が集められることになったのだが,時はすでに秋9月10日であった。肥前国で新羅征伐の結果を占ってから半年くらい経つが,皇后はおそらくこの間に新羅出兵の準備をしていたのであろう。(同書には,神田(かんだ:神にささげるために設けた田のことか)を設置したという内容が見える。また,この神田に水を引こうとしたところ,大岩が水の進路を塞いだとある。ちなみに,この岩は神に祈った結果,落雷によって粉砕された。)

 また,皇后は男装をしていたが,この時子供を孕んでおり,しかも臨月であった。そこで皇后は石を腰に挟んで,生まれる時期が遅れるように祈ったという。
 
 そして冬10月3日,鰐浦(わにうら)という場所から出発した皇后らの新羅討伐船は,風の神による強風と,海の神による荒波,そして多くの魚が船体を押し上げて進めたことにより,舵や楷を使うことなく新羅に到着した。
 新羅王は日本軍がやってきたことを知り,戦うことなく白旗をあげて降伏した。というのも,皇后らを乗せた船団が起こした波が新羅の国中に及ぶほど大きかったからである。新羅王は「かつてここまでの海水がわが国に流れ込んだことがあるだろうか。このままでは,我が国が海の底に沈むではないか。」と言って自らに縄をかけた。また王は今後新羅が日本に服従して生産物を献上し,さらに自身は馬飼いになることを申し出た。

 日本軍の中で新羅王を殺すべきとする者もいたが,神功皇后は彼を殺さずに馬飼いにすることにした。また,新羅から多くの戦利品である宝を没収して日本軍は帰還した。
 また,百済や高句麗もこの出来事を知り,日本軍に勝てないとして朝貢することを決めたという。

 ここまでが,『日本書紀』の伝える,三韓征伐の内容の概略である。現在,韓国側の歴史書で新羅,高句麗,百済の歴史を伝える『三国史記』には,日本に朝貢するという内容は無いこともあり,史実かどうか疑わしくもある。また,現在の日韓関係では,お互いの国際的な感情も手伝って,おそらく調査を進めることすら難しいといえるだろう。
 さて,三韓征伐については別の章で詳しく述べるとして,話しをソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオに戻す。
 上記の内容から分かるように,これら三柱の神は三韓征伐に深く関わっている。日本が新羅という国を認知したのもこの神によるもの,そしてその国を征服することも本来の天皇の計画にはなくこの神の意志によるものであることも読み取れる。

 『日本書紀』の内容は,ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの他,複数の神が新羅討伐の意を伝えたという風に読み取れる。だが,『古事記』にも三韓征伐の記述があり,この内容によれば単にソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの三柱の神が,アマテラスの意を伝えたということになっている。