2019年2月24日日曜日

日本史 建国神話⑥


・ソコツワダツミ~ウワツツノオ

 さて,次いで紹介するのはソコツワダツミからウワツツノオまで六柱の神である。これらの神もまたイザナギが禊をすることにより生まれた神であり,『古事記』の内容によればイザナギが水に潜って身を清める際にその深さによってそれぞれ生まれた神であるという。具体的には,まず,イザナギが水の底へもぐって体を清めたときにソコツワダツミ,ソコツツノオが生まれた。次に彼が水の中程の深さで身を清めたときにナカツワダツミ,ナカツツノオが生まれた。そして,彼が水面近くの浅い深さで身を清めたときにウワツワダツミ,ウワツツノオが生まれたという。
 これらの神を以下に列挙する。(番号は以前紹介したヤソマガツヒからイヅノメまでのものを継承することとする。それらもまたイザナギが禊をすることで生まれた神であるからである。)

ソコツワダツミ
ソコツツノオ

ナカツワダツミ
ナカツツノオ

ウワツワダツミ 
ウワツツノオ

 これら六柱の神は,2つのグループに分けられる。⑥ソコツワダツミ,⑧ナカツワダツミ,⑩ウワツワダツミの三柱から成るグループ。そして⑦ソコツツノオ,⑨ナカツツノオ,⑪ウワツツノオの三柱から成るグループである。
 記紀などの史料における物語のなかで,これら六柱の神が単体で行動することは無く,常に三柱のグループで行動している。また,神社にご祭神として祀られる場合は,ほとんどの場合三柱同時に祀られる。単体で祀られることはおおかた無いといってもいいだろう。
 

・安曇連(あずみのむらじ)
 
 『古事記』によると,ソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミ三柱の神は,安曇連(あずみのむらじ)祖神として祀る神であるという。安曇連とは,古代豪族のひとつである。
 まず,祖神とは何かについて触れておく。『古事記伝』によれば,“祖神”とは“オヤガミ”とよむべきであるとする。では,“オヤガミ”とはどのような神であるのだろうか。今日我々にとって“オヤ”とは“親”であり,父母のことを示す言葉である。しかしながら『古事記伝』によれば,ここでいう“オヤ”とは,単に父母のことのみを示すのではなく,何代も昔の遠い祖先までもを含めてすべて先祖のことも含んでいるという。また,これは古代日本における言葉の意味であるという。(但し,先祖のことを遠祖,上祖,本祖,始祖などと記す場合があるが,『古事記』においてはそれらをすべて単に“祖”と表現していることを『古事記伝』は取り上げている。)
 これを見れば,ソコワダツミら三柱の神が,安曇連の先祖となる神であるといえるだろう。

 それでは,その安曇連とは何なのか。
 『先代旧事本記』にこれら三柱の神が安曇連によって筑紫の志賀の神として祀る神であるという内容があるなど,安曇連は福岡県志賀島を根拠地とした古代豪族であったことが分かっている。
 志賀島はかの有名な『漢委奴国王印(かんのわのなこくおうのいん)』が発見された場所としても有名だが,かつてその場所を根拠とした豪族がいたのである。

 また,安曇連が漁民系の豪族であったことも推測される。『古事記伝』によれば“ワダツミ”という言葉は日本神話における海の神の意であるという。
 神話における最初に現れた“ワダツミ”はオオワダツミという神であり,この神はイザナギとイザナギの間に八番目に生まれた子である。
 “ワダツミ”の名を冠するソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミが海に関連する神であるならば,それを漁民系の豪族が祖先神として祀るのは自然である。

 また,安曇連が漁民系の豪族であったことを裏付けるものは他にもある。例えば,『日本書紀』神功皇后(じんぐうこうごう)3年の記述には,11月に安曇連の先祖が漁民の統率者に任命されたという内容がある。
 具体的には,この時,各地にいる漁民のが天皇の命令に背いて騒ぎ立てたので,大浜宿禰(おおはまのすくね)という人物にこれを平定させた。これによって,彼が漁民の統率者の地位を与えられることになるが,同書によるとこの人物が安曇連の祖先にあたるのだという。
 この内容は,安曇連が海人集団の長であることを根拠づけるものとされる。
 こうした理由などから,古代にはソコツワダツミ,ナカツワダツミ,ウワツワダツミを祀った安曇連という漁民系の豪族がいたことになる。


・ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオ

・“筒男”

 さて,次いでソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオについてだが,まず,これらの神の名前の意味について触れておく。
 これら三柱の神を漢字で示すと,それぞれ“底筒男”,“中筒男”,“表筒男”となる。まず,名前に共通する“筒(ツツ)”の部分の意味について『古事記伝』の見解を示す。同書によれば,この“ツツ”というのは,二つの“ツ”が連なる表現で,その前後の“ツ”が異なる意味を持つもとであるという。
 まず,前の“ツ”については,“ソコ(底)”,“ナカ(中)”,そして“ウワ(表)”にかかる言葉である。つまり,“底津”,“中津”,“上津”というように,“津”を意味しているものとされる。
 そして,後の“ツ”については,“オ(男)”にかかる言葉だとされ,“男”という字の稱名(たたえな:優れていることを強調するために着ける表現か)であるとされる。
 
 
・三韓征伐

『古事記』,『日本書紀』には,いわゆる三韓征伐という出来事が表されている。神功皇后の時代において,新羅,百済,高句麗という,古代朝鮮半島に存在した国を日本に服属させたという内容であるが,真偽は不明である。
 神功皇后は14代天皇である仲哀天皇の皇后であり,仲哀天皇の後を次いで日本国の政治の中心的な人物となった。彼女の存在自体,実在したか否か激しい論争が今日も繰り広げられてている。

 三韓征伐については後に詳しく述べたいと思う。ここで重要なのが,この三韓征伐にソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオが深くかかわっているということである。そもそもこの三韓征伐はもともと仲哀天皇の計画にはなく,これらの神が望んで行われたことと伝えられる。以下,『日本書紀』における内容を簡単に示す。

 仲哀天皇の即位2年(秋9月5日とされる記述),天皇は熊襲(くまそ)を討伐することを群衆に伝えた。しかし,皇后である神功皇后に神が憑依して,「天皇は何故,熊襲が従わないことを憂いで,痩せた彼等の地を攻めようとするのか。このような場所を攻めるより,多くの宝がある新羅を攻めるのがよい。もし,自分を祀るのであれば,刀で血が染まることなく,その国を服従させることが出来,さらに熊襲も服従するであろう。」と言った。

 だが,これを聞いた天皇には疑いの心があった。皇后に憑依した神はまた,新羅国が処女の眉のように海上に浮かぶ国(水平線に僅かに見える陸地をあらわす)と言ったが,天皇は高い山岳に登って海を見渡し,そこには広々とした海のみが広がっており,国の一つも見当たらないと言った。

 すると神は「あなたがそのようなこと言って新羅討伐を実行しないのであれば,国を保つことは出来ないでしょう。また,今,皇后(神功皇后)が身ごもっている子供(後の応神天皇)がこの国を得ることになるでしょう。」と言った。
 その後,仲哀天皇は神託を無視して熊襲征伐に向かったが成功せず,即位9年に突然病気にかかって間もなく亡くなった。つまり,神の神託を聞き入れなかったので早く命を落としてしまったのである。天皇の死は人民には伝えられず,間もなくして,神功皇后が先に神託をした神の名を聞いた。

 皇后が「以前,天皇(仲哀天皇)に神託をしたのはどこの神ですが。」と尋ねると,神が七日七夜に渡って答えた。(というのも,神は一柱ではなく複数いたようで,皇后側が「まだ,他におられますか。」と訊くと別の神の名前が返ってきた。)
 神功皇后側の問いに神の返答を以下に列挙する。中には曖昧な返答もあるが,確かにソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの名を見ることが出来る。

①撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたあまさかるむかつひめのみこと)

②尾田の吾田節(あかたふし)の淡郡(あわのこおり)にいる神
 
③天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)

④(他に)いるかどうかわからない。

⑤日向国の橘の水底にいて,まるで海藻のように若々しく命に満ちている神。その名前は,表筒男(ウワツツノオ)中筒男(ナカツツノオ)底筒男(ソコツツノオ)がいる。
 (日向国の橘とは,イザナギが黄泉国から帰ってきた後に禊を行った場所である。したがって,ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオが生まれた場所といえるであろう。)

⑥(他に)いるかどうかわからない。

 そしてこれ以上は神の名前が挙げられなかったので,神功皇后はこれらの神の教えのままに祀った。
 だが,神功皇后が新羅出兵をこのあと間もなくして行った訳ではないようだ。神功皇后が神託を請うために自ら神主になったのは仲哀天皇が亡くなった年が仲哀天皇9年の春3月1日であり,その後皇后が新羅に出兵を決意するのが4月3日である。つまり,神託を受けてから新羅出兵を決意するまで約1か月くらいの期間がある。
 皇后はこの間に熊襲を平定していた。また,土蜘蛛(つちぐも)の討伐も行っていた。(土蜘蛛とは熊襲と同じく,朝廷に服属しない集団の一つと推定される。)

 そして,仲哀天皇9年の夏4月3日に新羅を攻める直接の契機となる出来事が起きた。この日,皇后は肥前国(ひぜんのくに:佐賀県,長崎県の一部にあたる)松浦県(まつうらのあがた)にある玉島里(たましまのさと)という場所で食事をしていたが,ここで釣り針を川に垂らして占いをした。
 その内容とは,これから新羅を攻めるにあたって,皇后がそれを成し遂げることが出来るか否かを占うというものであり,垂らした釣り糸に魚がかかれば新羅征伐は成功し,かからなければ失敗するという。結果,鮎がかかったので,皇后はその準備に取り掛かった。

 そして,神功皇后は香椎宮(かしいいのみや:筑紫国にある居地,仲哀天皇が亡くなった場所)に戻って海水に頭をつけ,再び神の力を乞うた。もし,神の力を受けることが出来るのなら彼女が水に浸した髪がひとりでに二つに分かれるだろうと言うと,その通りに髪はひとりでに別れたという。皇后はその別れた髪をそれぞれ束ね結い上げた。
 こうして結い上げられた彼女の髪型は髻(みずら)といって,古代においては男性の髪型であった。すなわち彼女は軍を率いるために男装をしたのである。
  
 こうして,新羅出兵のために各地から船舶が集められることになったのだが,時はすでに秋9月10日であった。肥前国で新羅征伐の結果を占ってから半年くらい経つが,皇后はおそらくこの間に新羅出兵の準備をしていたのであろう。(同書には,神田(かんだ:神にささげるために設けた田のことか)を設置したという内容が見える。また,この神田に水を引こうとしたところ,大岩が水の進路を塞いだとある。ちなみに,この岩は神に祈った結果,落雷によって粉砕された。)

 また,皇后は男装をしていたが,この時子供を孕んでおり,しかも臨月であった。そこで皇后は石を腰に挟んで,生まれる時期が遅れるように祈ったという。
 
 そして冬10月3日,鰐浦(わにうら)という場所から出発した皇后らの新羅討伐船は,風の神による強風と,海の神による荒波,そして多くの魚が船体を押し上げて進めたことにより,舵や楷を使うことなく新羅に到着した。
 新羅王は日本軍がやってきたことを知り,戦うことなく白旗をあげて降伏した。というのも,皇后らを乗せた船団が起こした波が新羅の国中に及ぶほど大きかったからである。新羅王は「かつてここまでの海水がわが国に流れ込んだことがあるだろうか。このままでは,我が国が海の底に沈むではないか。」と言って自らに縄をかけた。また王は今後新羅が日本に服従して生産物を献上し,さらに自身は馬飼いになることを申し出た。

 日本軍の中で新羅王を殺すべきとする者もいたが,神功皇后は彼を殺さずに馬飼いにすることにした。また,新羅から多くの戦利品である宝を没収して日本軍は帰還した。
 また,百済や高句麗もこの出来事を知り,日本軍に勝てないとして朝貢することを決めたという。

 ここまでが,『日本書紀』の伝える,三韓征伐の内容の概略である。現在,韓国側の歴史書で新羅,高句麗,百済の歴史を伝える『三国史記』には,日本に朝貢するという内容は無いこともあり,史実かどうか疑わしくもある。また,現在の日韓関係では,お互いの国際的な感情も手伝って,おそらく調査を進めることすら難しいといえるだろう。
 さて,三韓征伐については別の章で詳しく述べるとして,話しをソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオに戻す。
 上記の内容から分かるように,これら三柱の神は三韓征伐に深く関わっている。日本が新羅という国を認知したのもこの神によるもの,そしてその国を征服することも本来の天皇の計画にはなくこの神の意志によるものであることも読み取れる。

 『日本書紀』の内容は,ソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの他,複数の神が新羅討伐の意を伝えたという風に読み取れる。だが,『古事記』にも三韓征伐の記述があり,この内容によれば単にソコツツノオ,ナカツツノオ,ウワツツノオの三柱の神が,アマテラスの意を伝えたということになっている。
 

 
 
  





 


2018年12月17日月曜日

日本史 建国神話⑤


・イザナギの身に付けていた者から成った神々

 さて,黄泉国から帰還したイザナギは黄泉の穢れを払うために川で身を清めるという場面がある。
 そして,イザナミとは既に決裂したイザナギだが,この場面でも数多くの神が生まれることになる。
 ここで生まれたのは彼単独で生んだのではなく,自ら成り出ることで生まれたと解釈されることが多い。
 『古事記』によると,イザナギが身に付けていたものが彼の体を離れることで生まれた神が合わせて八柱,そして,彼が川に身を沈めることで生まれた神が合わせて十一柱である。

 それではまず,彼が身につけていたものから成り出た神々を以下に列挙する。(『古事記』の内容による。)
 
①杖:ツキタツフナト
②帯:ミチノナガチハ
③袋:トキハカシ
④衣:ワズライノウシ
⑤袴:チマタ
⑥冠:アキグイノウシ
⑦左手の腕輪:オキザカル,オキツナギサビコ,オキツカヒベラ
⑧右手の腕輪:ヘザカル,ヘツナギサビコ,ヘツカヒベラ

 基本的に,『古事記』には,神々がどのような格好をしていたかを示す文が少ない。しかし,この内容を見てみると,彼(イザナギ)が,帯や袴を身に付け,杖を手にし,冠をいただいていたという具体的な風貌が想像できる。
 
 ところで,これら十二柱の神についてだが,これらはいずれも広く知られている存在ではないだろう。実際,『古事記』にはこれらの神についての情報は名前以外記されておらず,その名前から個々の役割が推測されるにとどまっている。
 以下,それらの神の造形を推測する手がかりとなり得る情報を列挙する。(主に,『古事記伝』参考)

ツキタツフナト(ノカミ)
 『古事記伝』によると,この神は,“これより来てはならない”と侵入を妨げる場所に座す神であるという。(ここでは,黄泉国の穢れによる侵入を妨げるものであろう。)
 『日本書紀』一書によると,イザナギが黄泉の雷神ら追手から逃れる際に杖を投げて,「これより来てはならない。」と言った。そしてこれがフナドノカミ(岐神)という。などという内容の記述がある。
 この『日本書紀』一書におけるフナドノカミの記述は,『古事記』のツキタツフナトとのものととても似ている。(両者は,イザナギが投げた杖から成り,フナト,フナドという名前の類似点がある。)おそらくこれらの神は同一のものを表しているといえるだろう。

 そして“フナド”とは“物を突き立てて,これより先に侵入してはならない”という意味の名前であるという『古事記伝』の説は,この『日本書紀』にその根拠を見出している。

 また,ツキタツフナトは漢字で書くと“衝立船戸神”となり,この“戸”というのは所(ところ)という意味であるという。したがって,この神は,これより先に来てはならないと侵入を妨げる場所に座す神という結論に至ったのである。

 ところで,日本では古くから,集落の境に御神体として石または石像を置き,悪しき物の侵入を防ぐという風習が存在した。これらは道祖神(どうそしん)塞神(さえのかみ)と呼ばれる。
 『古事記伝』によると,ツキタツフナトは『口決纂流』という資料などによれば道祖神であるとされ,また,『和名抄』によれば道祖神は塞神であるという。つまり,ツキタツフナドは道祖神と塞神と同一であることがここからうかがえる。
 

トキハカシ
 トキハカシは漢字で書くと,“時置師神”である。一見すると,時間に関する神,または時計に似た形をした神などが容易に想像され得る。
 しかしながら,『古事記』が編纂されたのは奈良時代初期。それ以前の時代に,時間という概念は我が国に浸透していたのだろうか。また,時計などという便利な物が古代日本に存在したのだろうか。トキハカシという神はこの名前のみを『古事記』に残し,それ以外は何も語らないのである。

 だが,他の資料から可能な限りアプローチを試みたい。『日本書紀』によれば,斉明天皇6年(660年,飛鳥時代),中大兄皇子が漏刻(ろうこく),つまり水時計を制作し,人民に時を知らせることにした,とある。
 この記述は,日本における時計を表す資料として最も古いものである。すなわち,この内容を信じるならば,すでに古代日本には時計が存在しており,したがって時間の概念も存在することになる。だから,時を神格化した神が日本神話に存在していても不思議ではないといえるだろう。

 だが,『古事記伝』はこの神について,時間とは全く異なる見解を示している。そもそも,ここでいう時(とき)という字は解き(とき)という意味であるというのだ。
 “解く”というのは,もともときつく縛ってあるものを解きほぐす意味である。また,この神はイザナギが身に付けていた袋から成り出た神である。
 よって,この神の名は,“(イザナギが袋を)解き置いた”という意味にすぎないのであるという。すなわち単に身に縛って携帯していた袋を外してどこかに置いたという意の名前ということになる。『古事記伝』にはこの神について,時間との関連性には一切触れていない。


ワズライノウシ

 この神については,とても明快な答えが出されている。煩い(わずらい)の神であるということだ。今日,“煩い”とは“心の病”という意味で使われることが一般的である。また,『古事記伝』によれば“煩い”とは“物に障り滞る”という意であるとし,いずれにせよ人にまとわりつく悪しきものである意である。
 そして,ワズライノウシの“ウシ”とは“主”という意味であるとされ,この神が“煩いの主”であるということになる。

 この神はイザナギの身から解き放たれた衣から生まれたわけだが,これまでの彼が身に付けていたものから成り出た神とは大きく違ったイメージを持つ神である。何故,衣から生まれた神だけがこのように悪いイメージの名前がついているのか。
 『古事記伝』によれば,穢れた衣を脱ぎ捨てることが,煩わしいことから心が解放されてこころがさわやかになる感覚に似ていることが,強いて言うならばその理由ではないかとしている。


④アキグイノウシ

 『古事記』によるとこの神はイザナギの冠から成り出た神であるが,『日本書紀』によればイザナギの袴から成り出た神であるとされる。また,『古事記』では“飽咋之宇斯能神”,『日本書紀』では“開囓神”と表記される。
 『古事記伝』は冠と袴の共通点からこの神の名前の意味を推測した。つまり,誰も身に付けていない冠も袴もまるで大きな口が“開(あ)いた”ような様子であり,それがアキグイノウシの“アキ(飽)”が示す意味であるという。
 また,アキグイノウシの“グイ=クイ(咋)”の示すところは,“クチ”という発音が変化したものではないかとする。もともとこの“咋”という字は“口”という字に由来するものであるという。『古事記伝』におけるこの説は,つまり“クイ”が“クチ(口)”であることを示しているといえるだろう。
 これらのことから口を開けたこの神の姿が想像できる。“ウシ(宇斯)”についてはワズライノウシなどの神と同じく“主”の意味であろう。
 

⑤オキザカル,オキツナギサビコ,オキツカヒベラ,ヘザカル,ヘツナギサビコ,ヘツカヒベラ

 これら六柱の神は,イザナギが身に付けていた左右の腕輪から成り出た神々で,三柱で対を成している。左の腕輪から成り出た神(オキザカル,オキツナギサビコ,オキツカヒベラ)に共通しているのが“オキ”という言葉であり,これを漢字で示すと“奥”である。また,右の腕輪から成り出た神(ヘザカル,ヘツナギサビコ,ヘツカヒベラ)に共通しているのが“へ”という言葉であり,これを漢字で示すと“邊=辺”である。
 『古事記伝』によれば,この“奥”という字が“海の奥”を示しており,“邊”という字は“海辺”を表しているという。“海の奥”と“海辺”はついに向かい合っているように,これらの神が対を成しているということであろうか。
 また,これらの神は左右の腕輪から成り出ているが,古代において“左”と“右”の概念そのものに優劣的なものがあったらしいことが『古事記伝』の説に挙げられている。当然ながら,今日において“左”と“右”のどちらがより重要な意味を持つかなどを特別意識される例は少ない。
 そして,その説は“左は特に重視される”ということを示唆している。古代の詩集『万葉集』の歌にも,左が右よりも重要視されていた可能性を見出せる例があるという。また,その詩によれば,左手を“奥手”と表現しており,左の腕輪から生まれた神々に“奥”の字があてられている今回の状況に類似点があるように思える。

 


・身を清めることで生まれた神 ヤソマガツヒからイズノメ

 さて,次にイザナギが身を清めた際に生まれた十一柱の神を挙げてゆく。(『古事記』による)
 イザナギはまず,体を清める際に身に付けていたものを外し,その際にいくつかの神が生まれ,それらはすでに上記に列挙された。
 そしてその後,イザナギが体を水に沈めることで,また新たに十二柱の神が成り出るのである。それらは以下,①ヤソマガツヒから⑫ウワツツノオまでである。
 これらの神は,イザナギの身に付けていたものから成った神八柱とは異なり,少ないがその存在意義を示す情報が与えられている。

ヤソマガツヒ
オホマガツヒ
 この二柱の神は,黄泉国の穢れから生まれた神であるとされる。『古事記』によって与えられた,この神に関する手がかりはこれに限られる。

 ヤソマガツヒとオホマガツヒ。黄泉の穢れから生まれたこれら二柱の神は善き神なのか,それとも悪しき神なのだろうか。
 『古事記伝』によれば,この世に起こるすべての悪しきことは,黄泉の穢れから生まれると表している。したがって,マガツヒ(禍津日,ヤソマガツヒとオホマガツヒ二柱の総称か)は先の時代の諸々の悪しきことを生み出してきた存在としている。
 
 『古事記伝』の作者,本居宣長の意見を信じるならば,ヤソマガツヒとオホマガツヒは悪しき神ということになる。


③カムナホビ
④オホナホビ
⑤イヅノメ
 
 そして,ヤソマガツヒ,オホマガツヒが生まれた後,カムナホビ,オホナホビ,イヅノメという三柱の神が生まれる。『古事記』はこの三柱の神が黄泉の穢れを治そうとして生まれた神であるとしている。

 本居宣長はまた,世の中のすべての善きことは禊(みそぎ)によって起こるとしている。禊とは神道における儀礼のひとつであり,身の汚れを落とす事を目的として,川や海などで体を洗い清めることである。
 イザナギが黄泉の穢れを落とそうとして行った身を清める行為もまた,この禊に当たる。
 本居宣長は,禊によって生まれたナホビ(毘神,カムナホビとオホナホビの二柱の総称か)は,世間の諸々の凶悪を善きことに直す神だとした。

 たが,ここで気になる点がある。先に紹介した,黄泉の穢れから生まれた悪しき神が二柱であることに対し,それを直すために生まれた善き神が三柱であることだ。
 両者は一見すると対を成しているようで,数が異なることに多少の違和感を覚える。ヤソマガツヒとオホマガツヒに対する存在が,カムナホビとオホナホビであるならば自然なのだが,実際はカムナホビ,オホナホビに加えてイヅノメという存在が加わり,二柱と三柱で善悪の対を成しているのである。

 このイヅノメには,何か特別な役割があるのだろうか。本居宣長によると,まず黄泉の穢れからヤソマガツヒ,オホマガツヒの悪しき神が成り,次いでそれらの悪を直すためにカムナホビ,オホナホビが成り,それらによって穢れが洗い清められ終えた時にイヅノメが成り出でるとされる。
 つまり,この善悪の神は二柱ずつで対を成しており,イズノメは善神によって浄化が終わった時に成り出る神ということになる。善神と悪神が三柱と二柱というアンバランスな構造は,彼の意見に基づけば解消されるのである。
 
 しかし,イヅノメはまだ謎多き神である。そもそも,イヅノメは『古事記』では“伊豆能売”と表される。これに対して,ヤソマガツヒは“八十禍津日”,オホマガツヒは“大禍津日”,カムナホビは“神直毘”,オホナホビは“大直毘”と表される。
 ここから分かるように,なぜかイズノメのみ,名前の最後に“神”の文字が着かないのである。
 そもそも,『古事記』における神話に登場する神のほとんどは,名前の最後に“神(かみ)”,“尊(みこと)”もしくは“命(みこと)”という字がついている。それにもかかわらず,イヅノメは,そのどれにも該当しない珍しい存在だ。
 

2018年10月7日日曜日

日本史 建国神話④

・黄泉の国

さて,引き続き『古事記』の内容に沿って,次は黄泉国(よみのくに)の話をここに記したいと思う。しかしまず,黄泉国について簡単に述べておかなくてはならない。
 黄泉国とは,日本神話に登場する異界の一つで,死後の世界と考えられている。死後の世界として考えられているものはもうひとつ,常世国(とこよのくに)というものが登場するが,両者のイメージは全く違う。
 常世国は極楽のような美しい場所とされる一方で,黄泉国は,暗く恐ろしいものと認識されているのである。イザナギはイザナミの死後,黄泉の国を訪れることになった。その理由は,亡くなった妻に会うためである。

 ここからは『古事記』の内容を示す。
黄泉国に行ったイザナギは,ついにイザナミがいる御殿の前に到着した。そして彼は,妻に「私とあなたで作った国はまだ完成にいたっていないので,一緒に帰ろうではないか。」と言った。 
 すると,閉ざされた門の奥からイザナミの声が返ってきた。「残念です。私はすでにこの国の食べ物を食べてしまったので…。もっと早く来てくれればよかったのですが。しかし,私自身も帰りたいと思うので,黄泉の国の神々と相談してまいります。その間,絶対に私の姿を見ないようにしてください。」

 そこで,イザナギは妻を待つことにした。しかし,いつまで経ってもイザナミは彼の前に姿を現さなかった。ついに待てなくなったイザナギは,自分の髪に挿していた櫛を取り出して火をともした。これで,御殿の中に下がっていったイザナミの姿を照らそうとしたのである。

 が,彼の火が照らし出したのは,美しいかつての妻の姿ではなく,醜い姿に変貌してしまったイザナミの姿であった。彼女の体からは蛆(うじ)がたかっており,体中から雷の神々が成り出ていた。イザナミは,おそらく,黄泉の国のものを食べてしまったので,このような姿になったのだろう。また,この時,イザナミから成り出ていた雷の神は以下のとおりである。

①オオイカヅチ(頭部)
②ホノイカヅチ(胸部)
③クロイカヅチ(腹部)
④サクイカヅチ(陰部)
⑤ワカイカヅチ(左手)
⑥ツチイカヅチ(右手)
⑦ナルイカヅチ(右足)
⑧フスイカヅチ(左手)

 この姿を見たイザナギは,驚いて逃げ帰った。しかし,イザナミは「お前は私に恥をかかせたな!」と叫び,黄泉の国の醜女(しこめ)にその後を追わせた。

 イザナギは,醜女が追ってくるのを見て,髪に付けていた黒い鬘(かずら)を道に投げ捨てた。すると,その鬘が落ちた場所からたちまち山葡萄の実が成った。醜女はその葡萄を見ると,拾ってむさぼり始めた。

 これで時間を稼いだイザナミだが,彼が振り返るとまだ醜女はしぶとく追いかけて来るのが見えた。そこで,今度は彼が髪に挿している櫛を取って道に投げ捨てた。
 すると,櫛が落ちた場所から筍(たけのこ)が生えてきた。醜女がそれにむさぼりついている隙に,またイザナギは逃げた。こうして,彼はついに醜女から逃げ切ることが出来たのである。

 『日本書紀』では,この醜女が冥界に住んでいる八人の鬼女であったとし,あるいはヨモツヒサメという名前であったとする。
 また,同書はイザナギが醜女から逃げる際,意外な方法をとっていたことを伝えている。その方法は,小便を大樹にかけて川を作るというものだ。
 彼はこの方法で醜女の進路を妨げようとしたというのだろうか。また,この川を醜女が渡ろうと悩んでいる間に,すでにイザナギは後述する黄泉比良坂(黄泉の国と現実世界の境界とされる場所)に到着していたと伝えられる。


 さて,話を『古事記』に戻す。このように醜女を振り切ったイザナギだが,次にイザナミは自身から成り出た8種の雷神に1500人の軍勢を従わせて,イザナギの後を追わせた。イザナギはこの時,持っている剣を抜き,それを後ろ手に振りながら逃げ続けた。

 そして,黄泉の国との国境,黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとまでやってきた。そこに実っていた桃の実を三つとり,追ってくる軍勢を待ち伏せた。そして,軍勢に向かってそれらの桃を投げつけたところ,黄泉の国の軍勢は退散した。この時代,桃には邪気を払う力があったと考えらえていたのだろうか。
 



 最後に,イザナミ自身が追いかけてきた。イザナミはこの事があってから,後に二つの異名を得ることになる。一つ目はヨモツオオカミ(黄泉津大神),そしてもう一つはチシキノオオカミ(道敷大神)である。
 チシキノオオカミという名前は,イザナミが男の神(イザナギ)にたどり着いたためにつけられた。
 そして,イザナミがこちらにやってくるのを見たイザナギは,大きな岩を黄泉比良坂に引いて彼女がこちらに来れないようにした。
 そして,二柱の神々はこの岩を挟んで向かい合い,夫婦が離婚するときに述べる言葉を交わした。だが,この時,イザナミは突然,「愛しい私の夫がそのようなことをするなら,私はあなたの国の民を1日千人絞め殺してやります。」と言った。
 これに対し,イザナギは「愛しい我が妻よ。もしあなたがそうするなら,一日千五百人の産屋をたてよう。」と言った。このことがあってから,我が国で一日千人が亡くなり,千五百人が生まれるようになった。


 ここで,黄泉比良坂について少し述べておきたい。『古事記』の示す黄泉比良坂は,出雲国のイフヤ坂(伊賦夜坂)という場所である。
 では,イフヤ坂とはどこか。 『出雲国風土記』には,イフヤ神社(伊布夜神社)というのがかつてあったことが記されているが,イフヤ坂はこの神社の近くにあったのではないかと考えられている。
 ちなみに,今日,島根県八束郡にある揖夜神社(いやじんじゃ)が,このイフヤ神社に当たるとされる。そして,この神社の近くに黄泉比良坂だとされる場所もある。そこには黄泉国と現世の境にイザナギが引いたとされる岩がある。

 だが,他にも説がある。『日本書紀』によると,黄泉津平坂というのは地名ではなく,人が死に近い時のことを表しているという。